奨学生の声 2019年度

「問われる日本の「民主主義」沖縄県民投票を通じて感じたこと」

一橋大学大学院 社会学研究科
元山仁士郎

私は沖縄・宜野湾市出身で、昨年(2019年)4月から一橋大学大学院の修士課程を1年間休学して「辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否を問う県民投票」実現を目指す「辺野古」県民投票の会の代表として取り組みを行った。「辺野古」県民投票の会は、同県民投票を実現するため、沖縄の学生、若者、弁護士、司法書士、経営者、戦争体験者、働くパパやママなど様々なバックグラウンドを持った人たちが参加している50名ほどの団体。賛成の人も反対の人も、ウチナーンチュ・沖縄県民みんなで県民投票を一緒に実現しようと呼びかけた。

県民投票は地方自治法に則り、2ヶ月で沖縄県の有権者の50分の1以上の署名(2万3171筆)を集め、沖縄県議会で条例が制定されれば実施できるものだった。県民投票の会では5月23日から2ヶ月で9万2848筆(総数10万950筆)の署名を集めた。これは、全市町村においても条例制定の要件である50分の1以上満たしており、全市町村の住民が同県民投票を求めたと言えるものだった。その後、県議会での審議を経て、10月26日に県議会で条例が成立した。いま、沖縄防衛局・国は名護市辺野古にあるキャンプ・シュフブの沿岸部を埋め立てて、2本の滑走路と、軍港、弾薬庫を備えた米軍基地を造ろうとしており、そのための埋め立てに対して賛成か、反対かを選ぶのが県民投票だ。埋め立ての権限は沖縄県知事が持っているもので、沖縄県民が選択できる性格を有していた。

普天間基地の側で生まれ育った私は、沖縄にいた頃は米軍ヘリやジェット機の爆音に対する嫌悪感や米兵・軍属による犯罪への恐怖感、基地の中での異文化体験を通じたアメリカヘの憧れなど複雑な感情を抱いていた。ただ、そのような感情を持っていたことと向き合えるようになったのは、2011年に東京に出て、福島第一原発事故に遭い、周りの人から沖縄の基地問題、特に普天間基地について聞かれたことだった。答えられなかったことに恥ずかしさを感じ、大学で学び、ようやく私が送っていた“日常”の異常さに気づけるようになった。普天間基地や基地問題は私の暮らし中にある問題だった。

その後、国際基督教大学在学中にSASPL(Students Against Secret Protection Law;特定秘密保護法に反対する学生有志の会)やSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy:自由と民主主義を求める学生緊急行動)の活重力を経て、2017年11月に、成蹊大学法科大学院で行政法を教える武田真一郎教授の話を聞き、県民投票に向けて始動する決断をした。武田氏からは県民投票の法的な意義について説明を受けたが、私自身はその歴史的・社会的意義を直観し、アクションを起こした。
歴史的・社会的意義とは、主に「世代間の対話」と「島々の対話」の二つを指している。今回の県民投票は、私の祖父母を含め沖縄戦体験者がいる中で実施できる最後の機会になってしまうかもしれない。私たち若い世代が戦争体験者と改めて話し、沖縄戦/戦争と密接不可分な基地について一緒に考えてほしいと思った。私は祖父母に署名をもらいに行く際に、基地についてどう考えているのか、戦争のときどのような体験をしたのか、話しを聞くことができた。

二つ目は「島々の対話」だ。沖縄は160の島々から成り、その内47島に人々が暮らしている。米軍基地は沖縄本島と呼ばれる島に集中しているが、他の島々の人々は基地に対してどう感じているのかを知りたい、さらに他の島々の問題も知りたいと考えた。県民投票を通じて、沖縄の島々で課題を共有し、ともに解決していく一助にできればと思う。実際、私自身10この島を回り、その島に住んでいる住民と話をしながら署名を集め、県民投票への理解と参力日を呼びかけてきた。沖縄全土で県民投票をしたという共通の体験を創出できたと思う。

昨年12月から1月にかけて、宮古島市、宜野湾市、沖縄市、石垣市、うるま市の市長が県民投票にかかる予算を執行しないことで不参加を表明した。県議会で制定された条例では、市町村の実施が義務付けられていた。投票で選ばれた市長が市民の投票権を奪ったのだ。この動きを受けて私は1月15日から5日間にわたり地元である宜野湾市役所前で5市長に県民投票への参加を求めるハンガーストライキを行った。市役所前には当該市民のみならず沖縄全県や本土から、数千名以上が足を運んで激励および県民投票への参加を求める請願署名を行った。一人で不安な中はじめたハンガーストライキだったが、大勢の方々が仕事合間・終わり、家事の合間に来てくれて逆に励まされる想いだった。

2月24日に全県で実施された県民投票の結果は、投票率は52.48%(60万5385票)。そのうち、反対が43万4273票(投票総数の約72%)、賛成が11万4933票(同19%)、どちらでもないが5万2682票(同8,7%)だった。このような結果にもかかわらず、また、工事現場の軟弱地盤が明らかになり先行きが見通せないまま、いまも埋め立て工事は続いている。多くの“日本人"は「仕方ない」と思考停止になっていないか。この国の“民主主義"とは一体何なのか。選挙で多数をとれば何をしても良いのだろうか。

日本の人々は今回の沖縄のウムイ(想い)に、今度こそ応えてほしい。様々な主張があることは理解しているが、沖縄が辺野古への基地建設に反対の声を明示した以上、普天間の移設先が必要か、どこにするのか、米海兵隊の必要性についてなど、沖縄の歴史と現状を踏まえ、周りの人と対話してほしい。私はこの国の民主主義をまだ諦めていない。

かつて、護郷隊として沖縄北部・ヤンバルの最前線で銃を構えて戦った祖父に、「なんで戦争が起きてしまったの」と聞いたことがある。祖父はしばらく沈黙し、「それが良いことだと教わっていたから」と小声で答えた。私たちはあれから何を学んだのだろう。子どもたちに何を残していくのか。問われている。

最後になったが、母子家庭の私が学業を続けていく上で、東ノー奨学会からの貸与の奨学金には援助をいただいた。御礼を申し上げたい。

「記憶に残った旅」

広島大学大学院 工学研究科
匿名

私の記憶に残った旅は、修± 1年時の夏に参加した短期留学です。主宰する財団の方々から手厚くサポートしていただいたため、単身で行う留学ほどハードなものではありませんでした。現地での様々な体験が素晴らしかったことはもちろん、それらの体験を通じて変化した心境が帰国後の進路選択や研究活動に大きく影響しました。今振り返ると今後の人生を考える上でこの短期留学はなくてはならない体験であったため、記憶に残った旅であると考えています。

留学中に通ったテキサス州の大学では、メキシコ湾で盛んに行われる石油の掘削に関する海洋工学と、それを題材としたプロジェクトマネジメントを学びました。このような大規模な産業であっても、私がこれまでに培った知識が基盤となる部分があることに気付いたことが最大の収穫であったと感じています。大学院では、スポーツ用具の開発に関する研究をしていたため、このような大規模な産業について学ぶのは初めての体験でした。今自分が研究していることは就職したら役に立たないだろうと考えていたため、それが無駄にならないことに気付いたことは、その後のモチベーションを大きく高める要因となりました。その後は、自分の研究とは離れた分野でも、出来るだけ多くの知識を吸収しようという想いが強くなり、授業に参加する姿勢が大きく変化したと思います。特にアメリカの授業は日本と違い、先生が学生に意見を求める場面が多いため、学生もただ聞くのではなく、自分自身で考えながら授業を聞くことが求められます。私の心境の変化はこの授業スタイルにうまくはまったのではないかと思います。これまでにない充実感の中、知識の収集と異文化体験を行うことができました。

帰国後は、今までと比較すると研究に対して積極的になれたと思います。留学前までは、教授と相談して生まれた課題をクリアするために研究を進めるという受動的なスタイルで研究を進めていました。しかし、留学中に得たモチベーションから、積極的に知識を吸収したいという思いが生まれたため、自ら論文を読み漁り、新しいアイデアを教授に提案するという積極性が生まれました。これまであまり研究の面白さを見出せずにいましたが、自ら新しい知識を吸収し、それをアウトプットするという過程は面白く、研究に没頭できるようになったと考えています。結果的に目覚ましい研究成果が得られたわけではありませんでしたが、研究活動を通して得た知識や思考力は、今後の人生でも大きく役立つのではないかと思います。

就職活動においても、短期留学で得た刺激が大きく考え方を変えるきっかけとなりました。アメリカでは、日本製の車が何台も走っていたり日本の企業の工場があったりと、日本企業の海外進出を身をもって感じることができました。短期留学に参加する以前までは、国外での仕事に関心がありませんでした。しかし、日本企業の海外進出を目の当たりにしたことで、これからは海外でも働くことができるスキルが必要であることを改めて感じました。

一方で、私の英語力はこのようなスキルからは程遠いものでした。短期留学の初日には、タクシーの運転手の方に目的地を伝えることもままならない状況でした。1ヶ月の間英語のみで生活をすることが不安になり、これを機に留学中に英語コミュニケーション能力を高めたいという意欲が更に強くなりました。日本では英語を聞く機会は多少あっても、自ら英語で発信する機会は少ないため、留学中はアウトプットに重きをおいて生活することを心がけました。英語を積極的に使うことで、観光などの異文化体験もより深く楽しむことができたのではないかと思います。現地で勉強すること以外にも、様々な異文化体験を深められたことも、留学での価値ある経験だったのではないかと思います。しかし、短期の留学ではネイティブスピーカーのように流暢な英語を話すことができるほどの上達はできませんでした。そこで、更に英語の能力を高めたい、将来は英語を使うような仕事がしたいという思いになり、希望する就職先にも変化が生じました。

留学終了後、すぐに就職活動が始まりました。留学前までは大学で学んでいる分野に近い、造船系や自動車関係の職に就きたいと考えていました。しかし、留学を通じ実感した「現在学んでいることがあらゆる業界の基礎となっている」という点から、必ずしも現在学んでいることに合わせた進路選択をする必要はないという考えに至りました。また、「英語コミュニケーション能力を高め、それを活かした仕事がしたい」という思いも湧いたため、日本だけでなく海外でも仕事のできる業界で働きたいという思いが強くなりました。以前から関心のあった航空業界での就職を希望し、就職活動を進めました。単に航空機が好きだからという漠然とした思いに加え、留学で感じた2つの考えが軸となり、志望動機や実現したいことを言語化できたことで有利に就職活動を進められたと思います。結果として、希望していた航空業界に就職でき、4月から働くことができます。

留学を通じて新しいモチベーションが生まれ、研究活動と就職活動を能動的に進められ、自分が本当にやりたいことをやり切って学生生活を締めることができました。また、社会人になってからも、高いモチベーションで働くことができると思います。充実した学生生活を送ることができた要因として、本奨学金があります。修士2年時の1年間、奨学金をお借りしましたが、その目的は時間を作ることでした。以前から、金銭的な事情からアルバイトを頻繁に行っており、研究も就職活動も十分な時間が充てられていないという状況でした。留学を終えて、学生生活へのモチベーションが大きく高まり、更に学生生活に十分な時間が欲しいと考え本奨学金に応募させていただきました。本奨学金をお借りしたことで、アルバイトの時間は必要最低限の時間で十分となり、研究活動や就職活動に集中することができました。本当にありがとうございました。これからは、学生生活をやり抜いたモチベーションを忘れずに、社会人としても精進したいと考えています。そしていつか、仕事の舞台を海外において、留学のことを思い出しながら、また新しいモチベーションを見つけたいと考えています。

「将来の夢」

山口大学 工学部
匿名

私の夢は薬の開発に携わることです。特に基礎研究をしてみたいと考えています。このような将来の夢をもったのには大きく分けて三つの理由が挙げられます。

まず一つ目は、自分が小さい頃からアトピー性皮膚炎に悩まされたことです。小学生の頃は本当にひどく、それが原因で仲間はずれにされることも多く、本当に苦しかったです。母に連れられて皮膚科や漢方薬局など様々なところに通い、今ではきれいに治りました。ここまできれいになれたのは、これまでにたくさんの薬にお世話になってきたからだと考えています。

二つ目は、19歳の時に父を癌で亡くしたことです。癌が発覚した時にはステージⅣでした。放射線治療やいろいろな薬で治療が成されましたが、発覚から半年後に亡くなりました。その中には、2018年のノーベル医学・生理学賞で有名になったオプジーポもありました。このとき、父の治療で効いたもの、あまり効かなかったものの違いが気になりました。

最後に、私が小さい頃から物を作ることが好きであつたことです。その中でも、なるべくアトピーと癌の両方について何か働きかけるようなことができないかと思い、考えたのが基礎研究に携わることでした。地味で、直ぐに結果が得られるわけではないかもしれないけれど、確実に新しい薬を作る手がかりになるようなことがしたいと強く思いました。

現在、有機化学系の研究室に所属し、主にキラルな分子についての研究を行っています。キラルな分子に区別がつくことは医薬品において、サリドマイド事件などが挙げられるように重要なことだと考えています。研究に配属され、自分のテーマをもらったことで夢に封する思いが一層強くなりました。自分や父のように苦しんでいる人たちの助けになるため、これからも夢に向けて頑張っていきたいと思っています。